Posted by wing_yamagami on 2015年12月16日
皆さん御無沙汰しています、つばさ亀山の山上です、歳を超す前の、切なさやもやもやした、このお話しをさせていただきます。
自分は独りぼっちだ、という不安。
孤立しているという焦り。
のけ者にされているという恐れ。
寄る辺のない心細さ。
話し相手がいない、遊び相手がいないという寂しさ。
人は群がり、事は相次ぐ。
私たちは日頃、忙しさ、あわただしさ、にぎやかさに身をゆだねて、できるだけ、
沈黙の時間に出会わないようにしているのではないでしょうか。
静寂を避け、喧噪こそ安住の場所であると思っているのではないでしょうか。
外からのおびただしい刺激。
けれども、実は、その刺激に休まず応える事によって、置き去りにされる自ら自身があります。
独りきりになること、意識の静寂の大切さ。
今、感じている孤独は、あなた自身に立ち戻れとの誘いではないでしょうか。
その呼びかけが聴こえるでしょうか。
孤独の中で自ら自身と向かい合い、時のゆるやかな流れに、ゆったりと身を預けていると、焦りや恐れ、刺激の人生とは隔絶した世界に私たちは招かれます。
自分自身を大切にするとは、どういうことでしょうか。
人はもとより、独りで生まれ、独りで死んでゆく存在です。
孤独を抱えながら生きる存在です。
その私たちが人々と共にあること、出会っているということは、どういうことなのでしょうか。
自ら自身に立ち戻れず、
自らに正直に向かい合えず、
自らを率直にひらくことができなければ、
独りであることの焦りや恐れや寂しさや不安から、決して逃られません。
どんなに大勢の者たちに囲まれていようと、
どんなににぎやかな生活があろうと、
心を語ることなく話し、
耳を傾ける事なく聞けば、いよいよ独りになってゆくのです。
そんな寂しさを繰り返してはなりません。
友達と心を通わせることができない時、
家族と気持ちを分かち合えない時、
同僚や上司との間で協力し合えない時、
私たちが生きているそれぞれの場所で、
自分が孤立し、理解し合えないと感じる時、
それぞれが独りであるが故に強く結びつくことを想ってください。
ただ馴れ合うための徒党に組さず、
互いが真に出会えるように、全力を尽くしてみてください。
自らをひらくこと。
自らにひらくこと。
あるがままにひらくのです。
そして、この自分を、在りとし在るものの前に、そっと置いてみましょう。
私たちはバラバラ別々なようで、
見えない絆を結び合っている一人ひとりです。
バラバラに離れて見える孤島と孤島とが、海底深くでつながっているように、人と人もつながり合っているのです。
あらゆる存在は一つのいのちとして結びついているのです。そのすべての源に想いを馳せるのです。
私は少ない人数で、濃い付き合いを望みます。
私の周りには、無限が広がり、
私の中に流れ込む。
私はただ独りあり、
一切と共にあり、
一切につながり、
一切とひとつです。
共に生きる私を感じたいのです。
不壊の絆を感じたいのです。
どうぞ
その絆をそのままに、その心のままに、寒さが続きますので、御自愛ください。